幻想水滸伝Ⅲ 発売15周年記念Webアンソロジー企画
『あなたの心に、唄を捧げて』
――僕の心は、きみの魂に。
きみは何処まで、この世界を見ていたのだろうか。
こんなにも色褪せた世界を、きみの瞳は見続けていたのだろうか。
たったひとりの家族が紡いできた物語は、白黒の終わりを忌避すべく、
命を燃やして、苦しみ続ける幻想譚だった。
僕は、何も知らないまま、生きてきてしまった。
何も知り得ぬまま、戦争を経験してしまった。
運命に選ばれた人間として、定めを受け取った紋章師として。
己の命を燃やしてやろうと、気丈な面持ちで振る舞っていた。
僕には、何も見えていなかった。
僕の瞳には、色鮮やかな世界しか広がっていなかった。
お前の最期は、これほどまでに空虚で淡泊な世界だと、そんな重苦しい現実から、瞳を背けていたようなものだ。
運命に反抗するなんてそんな悲しい事を、と考えていた自分の、なんと狭量で、心の機微の察せなさだろう。
自分はやさしさの牢獄に捕らわれたままの住人であると、嫌というほど認識してしまった。
「――――」
僕のたったひとりの家族は、僕を哀れんでいた。
僕にはそれが、虚勢にしか見えなかった。
果たしてこの場所で、向けられていた感情の意味をようやく理解した。
自分に呆れかえると同時に、怒りも湧いてしまった。
僕のたったひとりの家族は、僕を憎んでいた。
僕に向けられた感情は、運命を受け入れたくない我が儘で出来た棘だろうと思っていた。
そんな陳腐な感情なんて、彼にはひとかけらもありはしなかった。
憎悪の泥で固められた鋭利な棘を、僕の家族は、もう既に飲み干していたのだ。
今度はお前がこの泥を飲み干す番だと、仄暗い瞳を向けながら。
「――――」
僕のなかみは、恐ろしいほどに無垢で、疎ましいほどに無知で、そして愚かしいまでに、無惨だった。
知識を容れておくだけの容器と、何も変わりがなかった。
僕は感情を飲み込んで、己の中の入れ物に仕舞ってこなかったのだ。
「僕は、きみに、ちゃんと訊けばよかったのかな」
遠い記憶に、問いかける。
遅すぎる言葉を、渡り鳥を運ぶ風に問いかける。
背中を押しているはずの風は、僕の背骨を切り裂くような冷酷さで、僕のあばら骨を鳴らしていった。
★★★
亡骸を見ていないのは、せめてもの救いなのだろうか。
静かに事切れた弟の顔を見てしまえば、悲哀に暮れてしまうのは理解していた。
涙を流す表情を見せれば、僕の家族は、無様な顔だと謗るのだろう。
無邪気な顔ひとつ見せる事もなく、彼は差し伸べられた手を振り払うだろう。
それほどまでに、彼は遠くへ往ってしまった。
遙かに聳える城壁よりも高く、全てを取り込む調和の国よりも広い場所。
白く濁った世界よりも、黒く淀んだ世界よりも美しい場所へ。
「…………きみは、どうして」
言葉は風に乗って、しかし彼の耳に届く事はなく。
一握りの悔しさと寂寞が、僕の胸骨の奥を、ただただ震わせた。
★★★
あの事件の後、僕はわだかまりを抱えたまま、それでも神官としての務めを果たそうと、多少の無理を押して、政治を執り行っていた。
「ササライ様、顔色が優れませんが……昨晩はきちんと睡眠できたのですか?」
従者であるディオスが、僕の顔を見るなり、慮る。
仕事をしている間は、あまり感情を表に出さないつもりだったけれど、心労というものは、本人が思っている以上に深刻だった。
「ああ、問題ないよ。まだ疲れが抜けきっていないだけさ、心配しなくていい」
「身体には充分気を遣っていただかなくてはなりませんよ? 貴方の身を案ずる民は、わたしを含めたくさんおるのですから」
「ああ、そうだったね」
そうだ、僕はひとりではない。
僕には護らねばならない民と、遺していかねばならない国や未来がある。
僕は、僕の道を生きていかねばならないんだ。
一歩でも先に、進めて往かなくてはならないんだ。
「……それにしても、厄介な問題になりましたな。まさか『真なる風の紋章が忽然と存在を消した』とは――あんなにも強大な力の源が、何も影響を及ぼす事なく消えるなど、あり得ません」
「……そうだね。ましてや五行に連なる紋章だ、世界が受ける影響は尋常ではないはずなのに――この静けさは……」
依然として、神官としての責務は多岐に渡る。
今抱えている問題も、そのひとつだった。
――真なる風の紋章の消失。
破壊者として運命に抗った彼からこぼれ落ちた欠片が、あの凄まじい、まるで竜神の逆鱗に触れたかのような嵐を見せた後、崩れていく神殿の下から、消えたのだ。
彼と最期を共にしたはずの翡翠に輝くひかりが、入れ物としての機能を失った亡骸から取り出されるはずのひかりが、行方知れずのまま、数日が経とうとしているのは、僕にとって不穏でしかなかった。
紋章がまだ何処かにあると確信できるのは、紋章師特有の誘因、というのもある。
完全に壊れてしまったとは到底思えない。現に僕の心――真なる土の紋章に、そしてこのハルモニアの大地に、彼が遺した風を、小さな魔力の息吹を確かに感じるからだ。
「それに――」
そして、不穏といえば、もうひとつあった。
「――破壊者の亡骸が瓦礫の下から見つからなかった、なんて」
そう、紋章の入れ物であった彼の身体が、崩落した神殿の瓦礫の下に、爪の欠片も見当たらなかったのだ。
「…………」
もしヒトの介入があったのだとしたら、それこそ魔法使いの類が、紋章を狙って亡骸を回収したのかもしれないと、僕は考えた。
ハルモニアの屈強な武人たちだけでも瓦礫をひとつひとつ取り除くのは苦労していたのだ、動かした痕跡すら残さず死体だけを持ち去るのは、おおよその人間の所行ではない。
それに、紋章だけが欲しいならば、その亡骸に意味はないはずだ。
あくまで使役せず紋章そのものを手中におさめたいだけならば、紋章と結合している部分を切除してしまえば、それ以外は必要なくなって然るべきだろう。
…………。
もしや、『亡骸である事に意味がある故に、それを回収した』のか……?
「だとすれば、やはり――可能性を信じてみるしかない、か……。ディオス、少しばかり、古い文献探しを頼んでもいいかな? もし、閲覧の許可が降りないのならば、僕の発言権を行使しても構わない」
「承知いたしました。ではどのようなものを探してくれば?」
「ああ、あるかどうかは正直確定的ではないのだけれど――」
「――ハルモニアに過去に居たとされる操者ネクロマンサーの資料を、探してきてほしい」
★★★
「なるほど――推論は間違っていなかったか」
ハルモニア内でも屈指の蔵書量を誇る神聖国領図書館に、それは厳重に保管されていた。
もっとも、神官将の身分でなければ閲覧を許されない文献だったのは予測していたが、随分と手続きに時間を要してしまった。
それほどまでに、彼らの存在は隠匿されていたようだった。
かつてハルモニアに僅かだが存在した、禁忌の術者たち。
ひとつは、英雄が使役する紋章の力を吸引し、強制的に人間の身体へ付与・結合および従属させ疑似的に継承者を増殖させる奏者エクスレスター。
もうひとつは、屍に魔術で生気を送り込み操り人形として蘇生させ魔術を行使させる、もしくは己の魂を対象に憑依させて、その対象者の技術を行使する操者ネクロマンサー。
どちらも、軍国の間での戦争や内乱があった際に駆り出され、戦時中に傷を負い亡骸となった兵士に魔術を施し操る事で軍の武力を維持、または増強する役目を担っていたという。
しかし程なくして、国内外における一時的な戦争の減少、及び倫理観から逸脱した魔術を行使しているとして、需要の白紙化と民からの迫害を受け、孤立したソウシャたちは自決や処分を強要され、準じてその術式を途絶えさせてしまったと言われていた。
ディオスが探してきてくれた文献にも、僕の前述した通りの事柄が記されていたが、僕はまだ己の中の疑問点と文献を照らし合わせていた。
「今回の件は奏者ではなく、やはり操者が行う術式に必要な部分が多い……奏者に『生きている人間に魔術を施す術式を先鋭化させたもの故、蘇生術の併用ができなかった』という記録があるとなると、操者の術式には蘇生魔術、もしくはそれに準ずる禁忌な式が組み込まれていたようだ……」
…………。
何にせよ、ヒトとしての倫理の壁に穴を開けている所業を行っていた事は確かだ。
隠匿された技術を引き継いでいる人間が、この国の中に存在する。
ハルモニアの何処かに、真なる風の紋章を隷属させ、魔術を手腕に宿す者が。
ともすれば、事が遅れてしまえば、その者は人間でなくなってしまう。
紋章に選ばれた人間でさえ、それぞれに英雄たらんと、英雄の椅子に座り、天寿を全うするとは苦難の連続だと、茨に飾られた道を辿る。
それでも心根を折られないだけの胆力と、紋章を使役するだけの技術力、そして運命を共に歩めるだけの、生きるためのあしが必要だ。
紋章に隷属させられてしまえば、それはもはや紋章師でも英雄でもない、悪魔の苗床になり果ててしまう。
過去の操者と今の紋章師では、必要な技術も、必要な心情も、何もかもが違う。
過去の術式をそのまま適用すれば、人間として生きる事は永遠に叶わなくなってしまう。
反旗を翻すためなのか、秘匿された反動ゆえの探求心か。
手遅れになってしまう前に、そのヒトから何としても紋章を取り戻さなくてはならない。
僕の家族と、同じ末路を辿らせるわけには、いかない。
★★★
しかし、紋章を持っているのが操者の末裔である可能性はわかったが、肝心の居場所を絞るのは、困難をきわめていた。
人心と倫理によって迫害された人間たちを、歴史の地層から掘り起こすようなものだ、虱潰しで当たっていてはキリがない。
目星をつけるという意味では、ハルモニアの領分は、あまりにも広大すぎた。
事が進まず足踏みを迫られていたある日、三等市民の居住区域を担当する近衛兵から通達があった。
「――三等市民区域に、賭場ができた?」
「はい、それもかなり繁盛していると」
――訊けば、その賭場は随分と末法じみた場所になっていた。
何でも、元戦士や、落ちぶれた魔術師、果ては戦争孤児故に戦う事しかできない暴力のあり余った者たち同士を地下に建設された闘技場で戦わせ、どちらが勝利するか観戦し、勝利した方に賭けていた者たちには賞金を、実際に戦った勝利者には賭けられていた金額を与える――。
己の力が試される場としては、決して平常的ではない。
しかし、己に活躍できる機会が与えられる、そこでは己が必要とされていると感じられる、なおかつ金銭も得られるならばと、賭けの対象になってしまうものもいるのだろう。
それこそ、人生を博打に捧げるようなものだ。
哀しい人間のサガが、そこには芽吹いてしまっていた。
「しかし、あくまで市民からの噂ですし、致命的な怪我をした者や死人が出た、などといった大事にはなっておりませんが……」
「なるほどね……倫理の崖際を歩くように法の目をやり過ごしているようなもの、か」
三等市民区域は一等市民や二等市民の区域と違い、ハルモニア神聖国が領土拡大の際に、諸国の侵略や併合で民を募った時に国へ遣ってきた者たち
が住まう、いわゆる異国民の集落として認識されている。
そして、神官長ヒクサクによって制定された厳重な身分制度によって、同化政策を施されている状況だった。
理不尽なまでの『郷に入っては郷に従え』という施策は、三等市民の不満を多く買ってしまうのも必然。
そんなある種牢獄のような場所に、賭場が存在しているとなると、ただでさえ国の施策に不満を抱いている者たちが憤りをそこで発散していたとしたら、もしくは助長させていたとしたら、区域の風紀が一層乱れていくのは火を見るより明らかだった。
「現に三等市民からの陳情書受け取りは、ここ数日減少をしています。ササライ様、いかがなされますか?」
「…………」
そこで僕は、ある仮説を立てていた。
「――――」
――もしかしたら、その賭場に、真なる風の紋章があるのではないか、と。
真なる風の紋章の亡骸を己の身体として使役する、操者がいるのではないか、と。
ここ数日で噂にあがるほど急に出来たという事、賭けの対象はハルモニアの荒くれ者たち、そして『大怪我をした者や死人が出ていない』という事。
その賭場を管理している者が、簡単に「博打対象の駒となる荒くれ者たちを死なせる」わけはないだろう。
なれば蘇生術を駆使して無理矢理に駒を生存させる事は、操者にとって造作もないはずだ。
早合点はするものではないが、時期を考えても横道に逸れているわけでもなさそうだ。
「もう少しだけ様子を見ておこう。賭場とは言っても、市民にとっては酒場と同じように、憩いの場かもしれないからね。それに、諸国の政治家と変わりない立場の僕が出向いて顰蹙を買うわけにはいかない」
「では……」
「あまり表立った事はしないよ、今の時点ではね。いくら神官将とはいえ、事がある程度露見しなければ僕の手で行政を動かしづらい、こればかりは僕個人の権限を越えてしまう――ああ、きみの時間を少し取ってしまったね、情報ありがとう。引き続き警備に戻ってくれ」
「かしこまりました、では」
近衛兵の反応は、神官将殿がそうおっしゃるならば……とでも言いたげな顔をしていたけれど。
あくまで神官としては、こうするしかない。
相応の立場にいる者は、細心の注意を払って心象を掌握すべし。
一時の感情で下手に民を煽動するものではない。
まつりごとの書物にも記されている観点だ。
――そう。
あくまでそれは、僕の立場が神官であるならば、だ。
★★★
「自分が餌になり身分を偽って操者に近づく、ですと?」
鳩が豆鉄砲を喰らったような声色でディオスが問いただしてきたのは、僕が仮説を実行に移す算段を立てて二日が過ぎた頃合いだった。
僕からの提案に『なりません!』と叱責もされてしまった。
「ササライ様、己の立場をご理解していないのですか? 貴方はこのハルモニアにおける神官将なのですよ? ここ数日、要人としての気概をお忘れになっていらっしゃるようですが、過度な無茶は自粛していただかなくては。しかも、三等市民区域の賭場とは……ますます御身を危険に晒すおつもりですか!」
「ディオス、君の意見はもっともだけれど、今回ばかりは許してくれないか。下手をすれば、今度はハルモニア国内で、あの地震と爆発が起きてしまうかもしれないんだ」
「ですが……!」
「僕の命と民の命、どちらを優先させるかなんて、天秤にかけるまでもないだろう――それこそ僕は神官将だ、国の安寧を願わなくて、何の意味がある?」
「ぐっ……」
「我が儘だとは理解しているつもりだよ。……でも、今回はその我が儘を通させてほしいんだ。――罪滅ぼし、と言ってしまえば聞こえがいいかもしれない。けれど、僕なりのけじめを付けなくてはならない、そう思うんだ」
「ササライ様……」
血族としてのけじめ、人智を越えたちからを持つ者としての責任。
真なる紋章に紐付けられた運命に、織り連なる重圧。
継承者として、茨の道を歩まなくてもいい人間に、過酷な運命を辿らせたくはない。
それは僕自身が身にしみて感じ、嫌というほど理解しているからだ。
「……発言は撤回しない、そう言いたいお顔をしていらっしゃいますね……」
「――――」
「……はぁ。毎度ながら翻弄させられる従者の身を考えてほしいものですな」
「……許した、と受け取ってもいいのかな?」
「そう取ってもらって構いません。従者であるわたしは、元より貴方の行動と信条に従う身、融通の利かなさはそれこそ痛いほど存じております。なれば紋章を取り戻すために奮闘なさる背中を押すのも、従者の務めでしょう。ですが――ひとつ条件があります」
「条件?」
「はい――身の危険があった際には、必ずこのディオスを呼ぶ事、術者の危機を知らせる宝玉を携帯する事を約束していただきます。再三申しているとおり、無茶は御法度。ササライ様の御身に僅かでも傷を見つけた場合には、ハルモニア神官部隊と共に、迅速に駆けつけその賭場もろとも制圧する事を受け入れていただきたい」
「…………」
「この国の未来を背負っている御方の単独行動を許すのです、これぐらいは了承していただかねば」
こればかりは譲れないといった面持ちで、ディオスは僕を見やる。
僕は随分と幸せな立場にいたのだと、認識させられた。
そして、僕の背中には、数え切れないほどのたくさんの命が乗っているのだと。
背筋をぴんと伸ばされる感覚があった。
「信念のしっかりした従者を持てて、僕は幸せだよ」
「もったいなきお言葉にございます――それでは、もう三等市民区域へ向かうので?」
「ああ、少し時間をかけ過ぎたからね。場所に目星をつけた以上、すぐに行動しなくては」
「くれぐれも、お気をつけください――鬼が出るか、蛇が出るか、はたまたそれ以上の獣が、牙を揺らしているかもしれません」
★★★
――『struggle bar jail』
その場所は果たして、賭場というには些か平等にあらず、酒場というには情緒がなく、戦場というには騎士道からかけ離れた獣の棲まう、文字通り牢獄の中だった。
おぞましいほどの血の臭気、薫風すら赤く染め上げてしまいかねない香りが鼻梁を駆けめぐる。
次いで見えてくるのは、飢餓に駆られた、賭事の駒たる戦士たちの瞳。
胡乱な光彩に宿るのは、切磋琢磨し続けた己の求道ではなく、ただ相手を屠った先に限られた光景だけだろう。
この檻の中では、酒を酌み交わす誰もが、血と勝利に飢えていた。
「おや、見慣れない顔ですねぇ……見たところ別の区域の方のようだ……貴方もこの『遊技』に参加を申し出に?」
古びたカウンターの中から、僕を呼ぶ声がする。
ねっとりとした声音で、身体をまさぐられるような感覚があった。
「……ああ、ぼく――いや、私も少し腕試しと称して、賭事をしてみようかと思ってね」
「それはそれは有り難い話ですなぁ、繁盛するのは願ったりですよぉ。この店も区域の住人に知れ渡っているという事ですか……」
ふむふむと僕をいぶかしみながら、カウンターの男は受付の用紙を取り出し、僕に記入を促してきた。
この区域ではなかなか珍しい羊皮紙で出来た登録証だ――事も無げに扱っているところを見れば、随分と資金廻りは良いようだった。
「名前は……ヴォイド様ですね――ほうほう、一等市民区域の方でしたか。道理で召し物も一級品で拵えてある……まるで権力を傘にした『神官将さま』によく似ていらっしゃる」
「……!」
名前も偽名を使い、変装は十全の構えで行ったはずだったが、まさか看破されたのか……!
今身に着けているのは神官将の執行服ではなく、英雄であった頃の神官長ヒクサクがその身に纏っていた騎士服を、改めて繕い直したものだ。
顔にも、破壊者の仮面を模したドミノマスクを着用している。
少なくとも、神官将ササライとしての意匠はここに存在させていない。
普段の自分とは違う、鼻にかかるような出で立ちの魔術師として、自らを存在させている。
戦士の胆力における真贋は、ここから問われているという事らしい。
「ヴォイド様、どうなされましたぁ……?」
「い、いや――何でもないよ。こういった賭場に来るのは初めてでね、少しばかり面を食らってしまった」
「なるほどなるほど……そうでしょうなぁ、一等市民区域の酒場ではここまで殺気に溢れたものたちはおられませんでしょうしねぇ……」
「ああ……とはいえ皆が皆、士気も充分に戦おうとしている――命を懸ける戦士は、いつの時代も、どんな場所においても、輝かしく映るものだね」
「さすが貴族出身の方は美しい観点をお持ちでいらっしゃる……、我々では想像できませんなぁ……」
「お世辞として、受け取っておこうかな」
受付人の睨めつけるような視線は、仮面越しでも湿気た空気を連れてきた。
はやく、紋章の在処を、この牢獄から探し出さなくては。
「ところでヴォイド様、貴方様は初のご参加ですが、ここの『主宰様』を狙うおつもりで?」
「『主宰様』……?」
「ええ……この賭場を取り仕切る、眉目秀麗、冷静沈着、その上温情も持ち合わせる素晴らしい魔術師様でございますよぉ」
「その人の事、詳しく訊かせてもらえないかな?」
「ええ、もちろんですとも――」
受付人が言う、この賭場の主宰者。
訊けばその男は、亜麻色の髪に、すべてを見据える翡翠の瞳、新緑の衣を纏った様相をしているという。
賭場の懸賞金がある一定の金額を超えた者しか謁見を許さず相対しないらしく、そしてここまで勝利を得てきた獣たちの力量を試すように、或いは何か目的のために、別室の檻で品定めをする噂もあるという事だった。
「……その主宰の名前は?」
「『主宰様』はあまり素性を開かない御方でしてねぇ……このわたしも、というよりここの従業員たちは誰も、名前を教えていただけていないのです……」
「それで『主宰様』と」
「えぇ……わかっているのはその麗しい顔立ちと、あの翡翠に煌めく風の魔術だけ」
「風の、魔術……」
「魔術に関して造詣は深くありませんが、あれは凡庸な魔術師が使う輝きではありませんでしたねぇ……」
「そうか……ありがとう」
…………。
翡翠色の瞳と風、亜麻色の髪に緑衣の出で立ち。
反芻しても、遠い日のあの姿は揺らがない。
間違うはずなど、ありはしない。
それは僕の――――。
「ああ、そうだ。その『主宰様』のところにいくもっとも早い手段は、何かな?」
「初の参加で意欲的なお客様とは、従業員としても嬉しい限り……それはもちろん、貴方の首の賞金を上げるのが一番ですよぉ」
「やはり、そうなってしまうのかな――ヒトを殺めるのは、勇気が必要だと思う。私も昔、戦争を経験していたゆえに、未だに戦いには心を疲弊させてしまってね。情けない話だけれど」
「おやさしい心の貴族様でしたのですねぇ、戦に駆り出された時は苦労なさったでしょう……。まぁ――その気高くも美しい心が『主宰様』に届くかどうかは、それこそ運命の神のみぞ知る、という事でしょうなぁ――」
「さぁ開演ですよぉ――戦士の皆様、存分に血を流してくださいませ」
★★★
或いは冷たい虹彩を持つ戦士というのは、眼前の敵対者に無慈悲だった。
食いちぎらんと立てる牙が唸り、射抜かんと起つ魔の矢が飛びすさり、屠り尽くさんと猛る剣が吠える。
情が移る事など微塵もあり得ないといった様相で、あかい涙を流し続ける姿は餓狼のごとく。
己の首には多額のカネ、眦には紅色の雫。
そして手腕には、屍肉の欠片。
勝利を手にするたびに、首の金額が跳ね上がり、身体はあかく濁っていく。
「――――そらよォ!」
「…………っ!」
総じて敗北に喫した戦士各々の肺腑には、心臓が裂かれて咲いていた。
「随分とやさしい手引きをするもんだなァ……てめぇ――ヴォイドとか言ったか? 名前の通りすっからかんな魔術をこさえてんじゃねぇよ!!」
「」
現に僕もこの戦いをこなし、目前の命を奪わなくてはならない。
気絶させてやり過ごすなんて生易しさは、犬に食わせるような連中だ。
「どうしたどうしたァ! びびっちまってんのか!」
おおよそ僕の五倍はあろうかという巨大な体躯から繰り出される武術・剣術が、僕の身体を断ち切ろうと掠めていく。
そうだ、僕は檻の中に来ているのだ。
やさしい心根を棄てなければ、獣に食われて御首を晒す事になる。
「――――!」
紋章師の力を使えば、それは一瞬だろう。
けれど、あと一歩が踏み出せない。
己を人間としてではなく、国を滅ぼす兵器として扱う。
運命の神の加護を受けた、世界を作り替えられる27の傑物のひとつ。
僕の内側は、やさしさしか残っていない内側は、臆病になっているようだった。
「――――っ!」
「使ってやがる土の魔術は砂みてえにヤワだってんじゃ話にもならねぇ、もっとうまく立ち回りやがれ――ほらよッ!!」
血に塗れた剣が、巨躯から振り下ろされる。
直線的に土壁を作り、太刀筋を防ぐ。
次いで見据えるのは、相手の正中線。
数多の戦争で幾度となく見続けた、ひとをころすための線引きだ。
「そうだその眼だ、それぐれェ気合いの入った眼で戦ってくれねぇと、”大太刀回りの鬼神”ギルディアーノ様は満足できねぇってなァ!!!」
一際強く雄々しく鳴り響いたのは鋼の音、鉄の声、或いは剣と魔術の叫喚か。
否、それは。
巨人の喉笛を噛みちぎる、土石流と呼ぶに些か獰猛な地脈の顎だった。
「――――すまない」
臆病な心を奮い立たせ、一歩だけ修羅の片鱗へ近づく。
弔いの言葉は、ことこの戦において、必ずしも要にあらず。
大地を手懐けるための力は、斯くも無慈悲に、敵対者に働いた。
★★★
首輪に賭けられたカネは、ひとりを殺すたびに500000ポッチずつ上がっていく。
ヒトの命は500000程度の価値では到底釣り合うものではないが、この賭場では随分と軽い勘定をなされていた。
この場所で命を天秤にかけて悩みを持つような軟弱な輩は存在していない。
ある種無法者の楽園になっているのだろう。
倫理観から見て忌避すべき殺戮衝動は、この牢獄において心を焦がす燃料に他ならなかった。
と、影法師のような佇まいの男が、僕の姿を見るなり挑発をしてきた。
「我は”陽炎の蛇”ベルジュ――貴殿が新しくこの牢獄にやってきたヴォイドとかいう魔術師かな?」
「ああ――随分と私の顔を見ているようだけれど、何か癪に障るような振る舞いでもしたかな」
「その一瞥でそこまで我の感情を読みとるとは――随分と眼がいいようだね……ふふ、そうだ。貴殿のその、傲慢が服を着て生きているような佇まいが、己の力は存在すべきではないと後ろめたい感情で魔術を使うその様が――」
「――気に食わない!」
「!」
怒号と共に、相手の錫杖が振るわれ迫るのは、文字通り煌々とした炎。
しかしその炎は、ただ燃え盛るだけではなく、僕を封じ込める鳥籠のように、火柱を作り上げていった。
熱気の津波を防ぐのは、土石流の防波堤だ。
何かを防ぎ、寄せ付けず、物理的に弾く事に関して、土の魔術の右に出るものはない。
「防御一辺倒だな、ヴォイド――我の憤怒の炎は、熱いだろう?」
「ああ、まるで釜戸の中にいるようだ……きみの怒りは、とても刺々しい熱で出来ている」
肉薄する業火が、僕の身を焼き焦がそうと大蛇の様相を纏う。
きみが焔の蟒蛇うわばみを操るならば、僕にもひとつ考えがある。
しかしそれは、僕をまたひとつ前に、修羅へと歩み寄らせる行為だ。
先ほどの戦いで倒した剣士も、操者によって生き返らされるのだろうが、
やはり僕にとって、誰かの命が消えゆくのを見るのは、心に負担がかかる。
臆病である事は、ヒトにとって、生きていく為に必要な感情だ。
それを捨て去ってしまえば、己の欲望に溺れて、果ては獣になってしまう。
けれど、この戦いを制さなければ、僕は家族を奪われたままなのだ。
僕は、けじめを付けなければならない。
他でもない、僕自身が、僕の運命が、僕の心情が、たったひとりの家族を取り戻そうと奮起しているのだ。
僕は僕のなかみを裏切らない為に、修羅にならねばならなかった。
「貴殿は我のように欲望に堕落した魔術師は好かないだろう? 名簿を見せてもらったが、貴殿は一等市民らしいじゃないか? やはりな……上の立場にいる者が、下界の民を嘲笑しに来るとは、随分と神経を逆撫でする……!」
「そんなつもりはないよ。私もこの場所で欲しいものがあってね、それを手に入れるまでは、この博打を打つつもりさ」
「はっはっは! ――一等市民である貴殿が、余りある富も確固たる立場もある貴殿が、これ以上何を欲するというのかね!」
「……家族だよ」
「家族……? はは、かぞく……家族……! そんな、はははっ、共に生きていくごとに人生の贅肉に成り果ててしまう関係、存在を? ははははっ! 何だそれは? 貴族というものは甚だおかしい倫理観を持っているのだなぁ……」
「――――」
「家族とは孤高を目指すものにとって猛毒になる。関係性を続ければ続けるほど、その身を蝕んでいくのだぞ? そんな繋がりを貴殿はここで手に入れ――」
「――――戯言はそれだけか?」
蟒蛇の毒牙は、僕を呑み込もうと開いていた。
だが、そこまでだった。
「……っが? ……っあ! あ、あ、ああああ! がああああああっ!」
燃え盛る大蛇の顎を引き裂き、錫杖をへし折り、自らの炎に反されのたうち回る魔術師の肺腑を食いちぎったのは、おぞましくも荘厳な牙を持つ竜神の片鱗だった。
僕の中で決定的に振り下ろされた感情が、僕の修羅を動かしてしまった。
「悪いが毒なら既に飲み干している――『そんなちっぽけな毒蛇』程度で、私に毒と炎を注ごうというのなら、それこそ嘲笑の対象だよ」
神の子を拐かした蛇が、神の寵愛を受けた竜を誑かそうなど、おこがましい。
臆病な感情の裏に潜んでいた、僕の修羅としての振る舞い。
或いはこれが、僕の父が過去に歩んでしまった振る舞いを血筋によって再現しているのだろうか。
人類種をひとつ滅ぼすほどの悪辣さを、僕の血は持っているのだろうか。
「が、ああ、何故……だ……なぜ、きで……おま、が、それ……、その、ちか、ら、を、……」
「きみが言っただろう――『眼がいい』と。……魔術師として、そういう意味で私に言ったのではないのかな?」
「…………!」
おそらく、その言葉を言っている自分は、仮面越しでもわかるほどに、ヒトの眼をしていなかっただろう。
己の血に流れた修羅の糸は、確実に相手を縛り上げ、磔に処す。
無慈悲な戦士は、またひとつ僕の中のヒトを廃棄させた。
「私の願いを侮辱した蛇を生殺しにするつもりはない――己の炎に灼かれるといいさ」
★★★
「ブラボゥ、ブラボゥ! まさか初参加で、ここまで懸賞金を跳ね上げた猛者が出てくるとは、いやはや感服の至りにございます」
首輪にかけられた賞金が、おおよそ小さな村を作れるほどの額に上がった頃合いだろうか。
牢獄の従業員から、そんな言葉を受け取ったあたりで、賭場の空気が一変していた。
――あのヴォイドって魔術師、"名持ち"を二人も殺ったらしいぜ……。
――おいおいそりゃマジかよ……。あんな優男みたいなやつがか……?
聞き耳を立てれば、僕を畏怖するような声も届いてくる。
紋章の力とは、僅かでも出してしまえば、簡単に人間を屈服させる事ができる証左に他ならなかった。
「というわけで、ヴォイド様――貴方は『主宰様』へのお目通りが叶いますが……お会いになりますかな?」
「ああ、もちろん。私の欲しいものが、そこにあるからね」
「ほぅほぅ……では、ご案内いたしましょう……」
「くれぐれも、命をこぼさぬよう、お気をつけくださいませ」
★★★
鬼の角を伏せ、蛇の牙を剥がし、修羅に身を下げた先。
牢獄の中のさらに奥に、その輝きは渦巻いていた。
「…………」
そこには、見慣れた色があった。
そこには、見慣れた光があった。
そこには――あまりにも見慣れた、表情があった。
「ようこそ、檻の最奥へ――私がこの賭場を取り仕切る『主宰』だ」
出迎えたのは、華奢な輪郭と姿だった。
ローブに身を包んだ相手が、僕の方へ言葉を投げる。
「まさか、これほどまでに実力のある人間が、この場所まで来るなんてね……。しかも好都合この上ない、こんな僥倖が、今までにあっただろうか……」
「仰々しくも白々しいね……どういう意味かな……『主宰様』?」
「一等市民がこのような場所の管理者に対して畏まるのはなかなかに滑稽だが、貴方が懸賞金を上げてくるのは、初めからわかっていた――いや、初めからそうさせてもらった」
「……仕組まれていたと?」
「貴方から選ばずして、"名持ち"が連続して相手をするなど、寧ろ意図的が過ぎるというもの。既に気づいていると思っていたが、まさか素知らぬ顔で屠るとは」
「……それはあくまでここの規定に従ったまで、本来なら、心労で倒れてしまうほど苦しいんだ」
「己が手を血で染めておいて、よく言えたものだ」
「戦争に出ていた身ゆえ、感情を押し殺すのは得意なんだ」
「それはそれは」
歩み寄る男は、ローブを脱ぎながら、檻の外との扉を遮断するように守衛へ促していく。
まるで、獲物を匿って逃げ道を塞ぎ、喰い殺す条件を整えているようだった。
「僥倖と言ったのは他でもない。私は貴方の立場に邂逅せねばならない目的があったからだ。一等市民である貴方に」
「富を得て、平穏を望むと?」
「それもある、神官の者たちに取り入ってもらえるならばそれも願いたいが――貴方の魔術を見て、話が変わった」
翡翠の瞳が、僕を見据える。
何度見た光景だろう、その肋骨を冷たく震わせるような風の如き目線が、僕の肌を駆けめぐる。
緑衣の魔装も、あの時と変わらないまま。
まるで時が『停滞』したかのように、生きたまま動いている。
…………。
「話が変わった、とは?」
「貴方が、神官将であったという事だ」
「……!」
竜の逆鱗は、賢しい知識を持つものであれば、やはり僕の来歴を推し量るほどの力があった。
或いは為政者という存在である自分も、戦歴の手綱を引いてしまえば。
その縦糸を引き寄せるのは必定だった。
「土の魔術を使う者は数あれど、竜の片鱗を見せるのは、紋章師の手腕があればこそ……ではないかな? 神官将ササライ殿」
「……その眼は、屍であっても機能するらしいね――操者ネクロマンサー」
「……その名前は、過去に廃棄した肩書きだ、随分と懐かしい」
破壊者の瞳で僕を見据えたまま、歴史の裏側にいた存在としての名を呼ばれた彼は、しかし狼狽する事はなく、僕の思惑を察したのだろう。
不敵に唇の端を釣り上げて、僕を真正面から改めて射抜いてきた。
「ともすればそうか……この『亡骸』はそういう意味であったわけだ、ササライ殿。真なる風の紋章を持つこの身体、亡者の記憶を手繰るのはあまりしないのだが……なるほどなるほど、『血を分けた家族』を取り戻しに、名を伏せて、衣を変えて、こんな辺境まで来たと」
「……理解しているのなら、私は――いや、僕はきみから取り返すだけだよ」
守護者の眼が、鈍く光る。
僕の中の修羅が、操り人を引き剥がせと蠢いている。
戦いの火蓋は、間もなく落ちようとしていた。
「いやはや何という僥倖の重ね合いだ! それならば、殊更に話は早い。――貴方がどんな存在か、今一度この『亡骸』から記憶を見させてもらったが、どうやら貴方は、私の目的に最も必要な人間であったようだ」
「どういう、意味だ?」
「血族としてヒクサクを断罪する、といえば、理解できるかな?」
「…………!」
三等市民であろう彼が、身分制度を打ち出したヒクサクに対して恨む気持ちは理解できる。
しかし、それだけではただのクーデターを起こすテロリストと心情は変わらない。能力を使い暗殺を企てるなり、三等市民の荒くれたちで反乱軍を作り、反逆を上げる事が出来るはずだ。
しかし、彼は僕に対して必要だと言った。
ヒクサク自身を狙うよりまず、僕の存在が、己の目的に対して必要だと。
それはどういう事だ……?
それに、血族……。
…………!
「まさか――そんな……きみの血族というのは……!」
「ようやく気づいた、といった顔をしているね」
「そう、私は、門の紋章を守護する一族、その末裔さ」
☆☆☆
私には、歳の離れた兄がいた。
門の紋章を守護する戦士として先んじ、戦士と認められてからも修行を重ねる背中を見て、私も兄のようになりたいと、憧れていたのをよく憶えている。
「パストール兄さん! ぼくにも剣術を教えてよ!」
「ウィル、お前にはまだ危ないぞ?」
「ぼくも兄さんみたいに、かっこいい戦士になりたいから!」
「そうかそうか、ははっ、よし、それじゃあ打ち込みだけでもやってみるか?」
「うん!」
幼き日の私は、兄によく剣術の指南をねだった。
兄は、やさしい眼差しで、私に剣の振り方を教えてくれた。
一族の戦士長であった父は、そんな兄弟の姿を見て、我が子が立派に跡継ぎをしてくれると、笑顔であった。
母は、命を落としかねない職業に身を捧げるのはあまりよく思っておらず、私の無邪気を時折諫めていたが、我が子かわいさと、夫の背中を見て育っている姿に、得も言われぬ幸福を想っていたのだろう、気を付けるのよと言葉をかけてくれた。
そんな中で、悲劇は起きた。
門の紋章の一族として守護し続けてきた北壁の大地が、火の海へと変わる瞬間だった。
戦火を上げたのは、私の村から南にある強大な国、ハルモニア神聖国の師団部隊だった。
将軍を国長のヒクサクとし、数多の軍馬と幾多の軍備を携えて、おおよそ村を襲うには過剰すぎる戦術を用いて、私の居場所を焼き滅ぼしていった。
「ウィル! パストール! ここは危険だ、早く逃げなさい!」
父の焦る声が聞こえる。
「あなたたちだけでも、村の外へ! さぁ早く!」
母の促す声も聞こえる。
だがふたつの言霊は、いずれも剣戟によって遮られていく。
「父さん! 母さん!」
燃え盛る紅蓮の中、家族は離ればなれになっていく。
父は焼けた家から私と兄を外へと促し、遣ってきたハルモニア兵から背を斬られ。
母は私と兄を庇うように、ハルモニア兵の剣を胸に受けてしまった。
「父さん!!!! 母さん!!!!!」
慟哭を紅蓮の炎がかき消し焼き尽くしていく。
夥しいまでの戦火は、父と母を弔う暇すら差し出してはくれなかった。
「何で……! どうしてハルモニアの軍はぼくたちの村を……!」
「わからない……でも、俺たちを殺そうとしているのはわかる」
「こわいよ……兄さん……」
「大丈夫だ、ウィル……俺が、お前を護ってやるからな……とにかく、この村から早く抜け出さないと――」
兄も戦士だ、本来であれば命を賭して戦わなくてはならない身に置かねばならない立場だが、弟である私の存在が、それを許してはくれない。
私に戦える力があれば、兄を助けられるのに。
幼い私は戦火の熱さによる恐怖と、己の無力感による怒りで、感情が揺らいでいた。
「ハルモニア軍をかいくぐって抜け出すには、森の中を抜けていくしかないな――ウィル、まだ歩けるか?」
幸運にも家屋の形が辛うじて残っている倉庫を見つけ、兄と身を寄せ兵士の眼を欺くため一旦潜む。
足の竦んでいた私を気遣う兄の顔は、戦士のそれであったがしかし、色濃い恐怖を隠しきれずにいた。
「うん、歩けるよ、大丈夫……」
「よし、じゃあ裏の小道まで走るぞ……途中で見つかったらそれこそおしま――…………!!」
「兄さん? ――っ!!」
「――――家畜が残っていたか」
もし畏怖と呼ばれる感情がヒトの形を為していたとしたら、その男は、まさに畏怖を具現化させていると言っても過言ではなかった。
そしてその男が、ハルモニア軍の将であろう事は、一際血に塗れた鎧と、ヒトとして逸脱した殺気を帯びているのを見て理解できた。
鎧に刻まれた海のように深い青の意匠が、煌々と燃える村の炎の中で、一層冷たく光る。
剣を執り、切先を向け、私たち兄弟へと、明確な殺意――いや、あれは殺意ではない、食物連鎖における上位者のような、『血肉を得て、優位性を保つために当然と屠る』といった心情を放っていた。
「……ッ!」
戦士である兄は勇敢に、そして当然と、私を庇いその将軍と相対する。
勇気を持った、けれど震える背中を、私は見つめる事しかできなかった。
「なぜ……俺たちの村を襲った……!」
「等価交換だ」
「等価、交換……? そんな理屈が通るか! 俺たちの村がハルモニアから何を奪ったっていうんだ!」
「ひかり、だ」
将軍はただ一言、私たちに告げる。
理解できない蒙昧のような言葉に、逸脱さが際立って伝わってくる。
ひかりとは何だ。そんなものを奪われた報復として、この村を灼いたというのか。
襲いかかる恐怖と、その穏やかで抽象的な言葉が、より生存の意思を明確に鋭くしていった。
「ふざけるな! そんな、そんなもののために……!」
「そんなもの――――だと?」
「ッ!? あ、あああああああああ!!!」
将軍の瞳には、竜が宿っていた。
それが紋章の力であると、私ははっきりと理解した。
そして己の一族が守護していた紋章と同じように、その力がヒトの身に余る27の傑物であり怪物である事、それを己の手腕として屈服させ使役しているのだと、ありありと見せつけられていた。
兄がひとりでに空中へと浮き上がり、次いで倉庫の形がひしゃげ、廃屋へと姿を変え、宿りの意味を為さなくなる。
将軍が手をかざし、兄の身体を操っていく。
使い慣れた得物であるかのように、ただの獲物を手懐けるかのように。
「ああ……! あ、あ、あ……!! な、んだよ、こ、れ……!! はな、せ……!! お、まえぇ…………っ!!!」
兄の身体は、将軍に捧げられた供物のように、空中で『停滞』していた。
紋章の力によって、ただ兄の時間を止めているのではない。
『ヒトの時間を止め続けている』
停止ではなく停滞とは、おそらくそういう事なのだろう。
将軍に操られている兄の身体だけが『世界から生きる事を停滞させられている』
今思えばそうとしか形容できない力に、私たちは服従させられていた。
「……や、やめ、ろぉ……!! おと、うとに、てを――だす、な……!!」
兄の形が変わっていく。
兄の身体が、ヒトの鋳型を失っていく。
兄の身体が、人間としての『秩序』を破壊させられていく。
生きるための喉が、肺が、皮膚が、臓物が。
すべて腐敗していき、屍のものへと代わり替えられていく。
「ああ…………あ…………アアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
兄は、私の目の前で『秩序』を失い、肉塊へと変貌してしまった。
獣の肉に似た、最期。
こんな非道が、こんな外道が、赦されるはずがない。
こんな、人道から脱したものが、最期であるなど。
「兄さん……!!!!」
「――私のひかりを、そんなものと侮辱した罰だ」
肉塊が、瓦解する。
兄の壊れた身体から降る血の雨が私の身体を打ち、追いかけるように慟哭の豪雨も注がれる。
終末的な光景。
幼い私の虹彩は、ヒトの色によって埋め尽くされてしまった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」
☆☆☆
「それからの記憶は曖昧だった。気づけば村の炎は鎮まり、村の中にいたのは、あかく染まった私だけだった」
「――――」
「兄を弔う事すら出来ず、門の紋章は魔女に奪われ、憔悴した私は、遺された命で何を為すべきか考えた――それが操者としての技術の獲得だった」
「兄を、取り戻すため」
「そうだ、兄をこの世に取り戻す――そして、私からすべてを奪ったヒクサクから、すべてを奪い返すと」
「…………」
「復讐の連鎖が何も生まない事は承知だ。しかし私は、私の心に、私の中にある憎しみに、哀しみに、嘘を吐きたくなかった。憎悪とは、時間を食って、嵩を増していくものだ」
「……――」
「わかるだろう、ササライ殿。紋章の運命によって家族を奪われた、貴方なら」
「――――それでも」
「異を唱えるか? 幸せだった日々を忘れ、凄惨な過去や憂いを絶ち、改めて明日を懸命に生きろと吐き捨てるか――――」
――――すべてを奪ったヒクサクの血族が!
破壊者の瞳を通して、彼の憎悪がにじみ出ていく。
その姿に、僕は、家族の面影を思い出してしまった。
あの日、運命に抗うために、己を壊そうと、竜に世界と命を焚べた男。
その光景が、脳裏をよぎる。
「亡骸の記憶を辿れば……まったく皮肉なものだ。この死した風の紋章師が、私と同じように、ヒクサクに対して憎悪の刃を、その切先を向けていたとは」
「――――」
「私と違っていたのは、安穏と生きてきた兄である貴方にも、憎悪を向けていた事だが……しかして、やはり、好都合だ――私はヒクサクの血族に、ヒクサクの複製の身体でもって、引導を渡す事が出来る」
「…………!」
「あの時ヒクサクが言っていた『ひかり』が何だったのか、幼い私には理解できなかった。だが、今ならわかる――『ひかり』という言葉の意味が」
――『ひかり』とは、誰しもが持つ、心のつながり。
「それをあの男から再び奪い、報復する事で私の心は完遂する――血族であるこの亡骸と、同じく血族である貴方の屍を得る事によって……!!」
憎悪の風が、瞬間的な速度で僕の身体を凪ぐ。
戦士として、魔術師としての武者震い。
そして紋章師として、継承者としての悪寒が襲う。
ヒトの命の蝋燭を吹き消そうと迫る気概が、僕の背を駆けめぐった。
「あの日、ウィルという非力な子供は死んだ。私は幼き頃の記憶を忘れないだろうが、力なき時代の名を棄てたのだ。故に今生の私は『名も無き者ネイムレス』――主宰ではなく、そう呼んでもらおう」
「ササライ殿、私たちは確固たる願いを持っているはずだ。貴方はこの風の紋章師である弟の亡骸を取り戻すため。私は貴方をヒクサクの血族として見据え、兄を奪ったものとして報復するため。理由はこれだけで充分なはずだろう? そう、言うなれば……貴方は弟への、私は兄への――」
――――弔い合戦だ。
★★★
得てして紋章師の戦いとは、人間の戦いとして逸していた。
振るわれる腕は一個大隊に相当し、放たれる魔術は国境を作り替えるほどの威力を持つ。
『名も無き者ネイムレス』と『何も無き者ヴォイド』
ひとりは偽体を、ひとりは偽面を用い戦いに赴く。
ひとつは名を棄て、自己と決別し。
ひとつは無を畏れ、血族を奪還し。
互いの悲願が、互いを彼岸へ導くために、刃となりて弾けていった。
「――――っ!!」
「はぁあっ!!」
荒れ狂う土石流をすり抜けながら、翡翠の烈風が頬を切る。
疾く走る一陣の風は、そのすべてが美しく舞う武装そのものだった。
「さすがは神官将であり、ヒクサクの血族であり、真なる紋章の正当継承者……その『眼』は場末の輩とは比較できないほど脅威だ」
「それはきみも同じだろう?」
「ふふ――そうだ、だからこそ、貴方の『眼』に追いつく事ができる。なるほど、紋章の継承者たちの戦いは、これほどまでおぞましい悪魔によって彩られていたというわけだ」
「ヒトの身に余る存在の僕たちを、きみは憎んでいるんじゃないのか」
「好奇心と復讐心は別の感情だ、今は同等の力を使役している間柄だろう――その時くらいは、私も力に溺れるさ」
「僕は、きみから弟を取り戻すつもりだけれど、同時にきみも救いたいと思っているんだ……その身体は、紋章との結合のためだけに作られた身体は、それこそヒトの技術に余る――きみの魂が耐えきれなくなってしまう」
「ほう――ヒトの心情を受け止めると豪語しておいて逆撫でするのか?」
「これ以上屍を――倫理からかけ離れ、怪物として生を終える人間を、僕や弟や父のような、紋章と人生を切り離せなくなった人間を増やさないためだ」
人間として生きて、人間として死ぬ。
それは紋章を継承した者に永劫与えられる事はない、終わり。
長命の肉体と引き替えに、運命の悪魔と引き替えに。
傍らに在ったはずのしあわせを、ヒトとしてのしあわせを手放すなど。
これからハルモニアで生きていく民が背負っていい業ではない。
「僕の父は、きみの兄を殺してしまった――父がひかりを奪われた報復として、貴方からひかりを奪ってしまった事実を改変する事はできない。けれど、殺されてしまったきみの兄を悼み、死んでいった命を背負う事ならできる」
「貴方が――私の家族の命を、背負うと?」
「そうだ――僕は家族を救えなかった。父の思惑も、弟の悔恨も、何ひとつ彼らの心を理解できていなかった愚か者だ。だからこそ取り戻す……今この時から、僕の器は、無垢で虚ろな心を容れておくだけの場所ではない――この国に生きる人間の心を、その想いを容れて生きなければならないんだ」
「血を争えない者の戯言を、私が許容すると思うのか?」
「それ故に、さ――己の心の在りように気づき、行動を変える事。それが僕に残された贖罪であり、神官将としての務めだ」
「…………」
名も無き者の瞳は、翡翠色の奥に、仄暗い疑念を持っていたように思う。
しかし、これは僕の揺らがぬ信念だ。
もう、僕は、僕の心は、無知なままではいられない。
ただの為政者として振る舞うだけではいられない。
国を背負うならば、そこに生きる人間を、そして弔えなかった魂を背負わずして、何のための神官将だ。
僕の座っている椅子は、その立場は、動かさなければいけないモノは、そこに胡座をかいて鎮座し権力を振りかざす玉座にするべきではない。
今こそ。
ササライという器を、変革しなければならない。
ともすれば、神官将としての立場も。
無垢で無知で無惨だった己のなかみを、変えなければ。
「だから、僕の父が与えてしまった罪を、きみを悲しませ歪ませてしまった報復の連鎖を、僕が背負う事で断ち切る――僕がきみの怒りを受け止める」
「……貴方は、やさしいヒトだな。まったく、それで継承者なのだから、いったいどのようなココロを持ち合わせているのか――私には、理解できない」
「理解できなくてもかまわない、僕たちは他人だ、最期までわかりあえるなんてそれこそ心に限りがある。これは僕の傲慢であり、神官としての民への、対応だ」
「情け、という話か」
「情けでもない、悲しみに暮れる民に気づけなかった己への怒りだ。僕は何も知らなかった。だからこそ、今知り得た罪を、僕が気づけた罪を、背負う――忘却とは、ヒトとしての死のひとつだから」
命の道がヒトよりも永く続いているのならば、ヒトよりも長く記憶していられる。
そのために、長命の蝋燭を燃やしても、罰は当たらないはずだ。
「…………私は紋章師を、人間として見ていなかった。須すべからく人外の兵器だと認識していた。……だが、ササライ殿、貴方なら、私の心を、私の家族の心を――…………があ、あああ!!!?」
しかしその言霊は、翡翠の言霊によってかき消された。
まるで仮面を剥ぐように、まるで意思を殺そぐように。
右の眼窩から、皮膚がこぼれ落ち、翡翠の欠片が伝い落ちていく。
命の宝石によく似た輝きに満ちた欠片は、瞬く間に形を為して、ヒトであるがヒトならざる鋳型いがたを作り上げていく。
「…………!!」
破壊者の身体が、おそらくはおぞましく夥おびただしいまでの痛痒に襲われているのだろう、そのまま彼の肉体が膝をつき、そして根を張るかのように倒れてしまった。
「ネイムレス――! …………っ!?」
剥離した欠片とは、つまりはその人間が持っていた魂の在りようなのだと思う。
何故なら、眼前で積み立てられたその鋳型は。
竜神の鱗を模した鎧と、達筆な画竜の如き兜を拵えた、翠色の化身だったからだ。
『――こんな薄汚れた檻の中で、ぼくの身体を弄ぶなんて、どういうつもりだ?』
★
それはともすれば、紋章がヒトの感情を持ち得た姿、とでも言おうか。
現実への干渉としては些か歪曲が過ぎるが、それを思考する暇もなく、烈風が迫ってくる。
果たして、ネイムレスが破壊者の身体を通して放った魔術とは一線を画していた。
器に縛られない紋章とは、やはり運命の神、その片鱗に他ならない。
相手は『守護者の眼ぼくのおとうとのかたみ』では、ない。
『運命の糸を統べるものやみ』、そのものの化身だ。
「――――っ!」
土壁をネイムレスの周囲へ展開させ、同時に化身の足場を泥濘に変える。
だが、遅い。
『――――小賢しいな』
風の化身に対して、目視での対応は数年単位での手遅れに酷似する。
肌を撫でると感じた刹那で敵を切り刻むような呼吸で迫らなければ、化身との戦いは意味を為さない。
瞬間、僕はネイムレスの前に、己の身体を盾にして、差し出していた。
付けていた偽面が、衝撃で壊れる。
「!! ササ、ライ……殿!?」
「怪我は……ないか?」
「どうして……私を……!」
「言っただろう、きみの魂を、背負うと……」
「…………!!」
「きみは、この国の民だ。そしてあの化身は、僕の家族だ。どちらも背負えないまま、この器に容れずして虚ろなまま置いて逝かれるのは、もう御免だ……!」
…………。
修羅へ落ち、修羅へ満ち、修羅へ唆そそのかせ。
己の中の化身が、声をかける。
あまねく大地を統べるもの、その継承者よ。
修羅へ換え、修羅へ代え、修羅へ変えと。
守護者の眼が、瞳孔を開いて喰らうのだと僕を囃し立て追いつめる。
鬼を食らって、蛇を食らって、まだ餌を欲すと宣のたまうか――!
「――――っ!」
僕の中に眠る竜の意思が、操る土を硬く結び堅く結び、外道も通さぬくろがねを形作り、その鎧と兜を築き上げる。
相克を超越し五行の戒律をねじ曲げたのは、僕が化身としての力を喚よびだした瞬間だった。
「僕は、二つ魂を背負うと決めた。ひとつめは名も無き者の魂を。ふたつめはその家族の魂を。そしてこれで三つ目だ。あの時の無念を今ここで――風の竜神、その化身よ……おまえに『事切れて逝った弟の魂あいしたかったかぞくのこころ』が残っているのなら、僕自身で引導を渡し、その棘を慰め、背負わせてもらう――」
――――ルック、今こそ、僕がおまえのこころを救う番だ。
★★★
「『はああああああああああああああああああああああっ!!!!』」
閉じられた檻の中で、双子の竜が激突する。
竜の爪が大地を引き裂き、竜の牙が疾風を噛み砕き、竜の顎が鎧う相手を血肉にしようと吠える。
螺旋を描くように連なっていく。
凱旋を待つように重なっていく。
終ぞ荒ぶる竜神たちよ。
誰ぞ紡げし戦神たちよ。
風を起こせ、嵐を起たせ。
あらん限りの乱撃を、あらん限りの嵐撃らんげきを。
硬度を上げよ、密度を上げよ。
すべてを受けし城壁を築け、すべてを呑みし城塞を築け。
放たれる一挙手一投足が、すべて必殺の一撃なりて。
兄弟の戦いは熾烈を極め繋がっていく。
やがて。
戦局は流転し、斯様な運命、その糸を編んでいった。
☆☆☆
真なる土の紋章師と、真なる風の紋章師。
ふたつの竜を見た時、私は生きてこの檻を出られないだろうと感じた。
紋章師同士の戦いは確かに凄まじかったが、化身としての戦いは、ヒトの思考の範疇を軽々と超えていった。
「――ささ、らい、殿…………」
心が欠けた事に依る肉体の消耗が襲う。
操者として憑依し、使役した身体からこぼれた、紋章の片鱗。
私があの時ヒクサクに抱いた畏怖は、間違っていなかったと確信した。
同時に、ヒクサクの血族が辿ってきた運命の荊道、その凄惨なる足跡における悲哀も。
私は操者から観測者へと変わってしまった。
力を得て、復讐する機会も得たというのに。
今はもう、この争いを見届ける事しか、力を振り絞れない。
「――――…………」
パストール兄さん。
貴方のようにまっすぐで強いこころを持っていたら、それでも。
その足で立ち上がり、神官将殿へ、復讐していたのだろうか。
………………。
いや、きっと、そんな運命は、遣ってこないだろう。
あの時、化身の魔術から私を、その身を持って防いだ神官将殿の姿が、かつての兄の背中を思い出してしまう。
過去に置いてきてしまった兄の面影が、思い出される僅かな走馬燈が、その運命を否定する力を、背中にくれた。
☆☆☆
「く! ううう……! はあ――――っ!!!!」
『ぐ! っ……うぐ! はぁっ!!!!!』
化身の鎧が剥がれていく。
運命に紐付けられた戦いが、終わろうとしている。
英雄譚の縦糸ではなく、ある途みちから外れた横糸の物語。
鎧う双つの獣、そのせめぎ合い、鍔迫り合い、殺ぎ合う鎬しのぎ。
皮膚を削り、意思を放ち、継承者である紡ぎ手は竜の叫びを送り出す。
五行に連なる、世界を構成するチカラたちは。
ようやくと、終局に向かって動き始めていた。
運命の神が、世界を歪ませすぎた二人の紋章の意志を、修正したのだろう。
互いに放てる竜の砲撃は、残り一発となっていた。
「……はぁ……はぁ……はぁ……!」
『ぐっ……ぁ……はぁ……は、ぁ……!』
兄としての矜持、弟としての矜持。
すべてを檻の中でぶつけあった、最初で最後の兄弟喧嘩。
そこに交わす言葉は、必要なかった。
弟である風の破壊者は、すべての罰を吹き荒ばせ。
兄である土の守護者は、すべての罪を受け止めた。
円に依って生まれ、縁に依って紋章に絡み合い、焔に依って争い、そして怨を飲み干し合った男たち。
流転に流転を重ねて、小さな水流が大河に変わるがごとく。
その奔流は、それぞれの次の刹那、腕を構えた時点で決断される――。
「ルック―――――――!!」
『ササライ――――――!!』
互いの名を呼ぶ。
ひとりは落涙を伝わせ、ひとりは血涙を流して。
兄の心情は、弟の心情は。
兄の意思は、弟の遺志は。
その声音と想いは、互いの耳朶じだに、果たして届いたのだろうか。
「『――――――――――――!!!!!』」
一際眩いひかりが、檻の中で輝いた。
此方に琥珀色の竜。
彼方に翡翠色の竜。
美しくも麗しき、雄々しくも神々しい悪魔の戯れは、強大な破壊の協奏曲を奏で、兄弟の幕を下ろした。
★
すべてを疲弊させ、すべてを放った後、僕のどこまでも空虚であった器に、魂が宿る感覚が起きる。
残りわずかな翠色のそよ風が、僕の心に注がれていく。
「……………………!」
言葉ではなかったが、弟の想いは風に乗って、僕のなかみに伝わった。
悲願を叶え、彼岸に送り届ける役目を、僕はようやく果たせたのだろうか。
それは、僕の弟しか、わからないだろう。
そして、操者である彼の元へ駆け寄る。
化身の生まれ落ちた反動で、おそらくは心の消耗が尋常ではなかったはずだ、まだ今から処置を施せれば、その命は助かる。
――はずだった。
「……ササライ、どの、私も、兄のところへ逝こうと思う……」
倒れた、まだ亡骸に憑依している身体を抱き寄せ、僕は問いかける。
「そんな、どうして……! まだ、きみの命は……!」
「貴方の姿を、見て、そう思ったのだ……家族の傍らで、己の腐敗していた心を……慰めたくなった……」
家族が恋しくなった、と、彼は言葉を紡いだ。
「私の、民の命を背負ってくれるのだろう……? その言葉に……私も、甘えさせてもらう……」
「ネイムレス……!」
「ふふ、名も無き男が、命の蝋燭を、消すだけだ……歴史に描かれない立場は……慣れている……それでも、貴方は、私の歴史を、私の想いを、私が、家族に寄せていた……想いを……忘れないでいて、くれるか……?」
抱き寄せた身体が、層の薄い土壁のように、ぼろぼろと解けていく。
ヒトの蝋燭から、いのちの焔が、消えていく。
「当たり前だ……!」
僕は決心を伝える。
そして彼の返答は、とても穏やかで、とてもやさしさと安堵にあふれていた。
「――――ありがとう」
★
三等区域の賭場は、取り壊される事が決定した。
そして、そこで回されていた資金は、一度神官将として僕が預かり、三等区域市民へすべて還元すると、僕から施策を発令する事で、同意が為された。
名も無き男の遺産を、三等市民の衣食住、および生活に補填する。
為政者として、斯くあるべき方向であったと僕は思う。
牢獄の中で死した者たちの弔いも、もちろん行った。
ディオスはあまり賛同しかねるといった顔をしていたが、立場による命の扱いの差別、それをする事こそが民意を損ねてしまうと、僕は叱咤した。
生命の重さは、扱われるべき命の灯火は、各々平等なのだ。
「…………」
僕は、ひとつの亡骸を、そして三つの魂を埋葬していた。
ディオスを含む従者からは、担当の業者が埋葬を行うと言っていたが、僕は自らの手で、送り出したいと意見を通した。
かつて北の大地との国境であった、とある場所。
墓碑には、名も無き男のかつての名と、その家族の名を彫り。
そして、翡翠の欠片を装飾に施した。
紋章からわずかにこぼれた、運命の欠片。
それは、僕の弟の、最期まで生きた証に他ならない。
「……………………」
どこかの異国では、弔いの際に、両手を合わせ、死者が無事に天国へ至れるように願う風習があるという。
まるで、神に命を捧げるようだと、僕は思った。
静かに手を合わせ、僕のその風習に倣って、鎮魂を捧ぐ。
ふと、僕の中に、ある旋律が思い出された。
どこで聴いたのか……――ああ、そうだ。
幼い頃に、聖歌隊に師事して、唄を習っていた時だ。
確か宣教師から、死した魂を慰め鎮める唄を習った。
その鎮魂歌の旋律を、少しだけ口にする。
――La lala la lala la lala――
――Lalala lala lala la lala lala――
――Lala lala la la la la――
――La la la――
――La lala lala lala la――
どこか懐かしく、どこか叙情的な調べ。
彼らの心に捧げる唄は、穏やかな伝言となり、僕の唇から紡がれた。
門の紋章の一族の末裔たち、そして、僕の弟は。
この旋律に何を想うのだろうか。
そして、どのような心情を抱いてくれるのだろうか。
それを訊く事は、出来ないのだけれど。
★★★
――兄さん、とてもきれいで、やさしい唄だね。