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    『その手を向ける先』

 
 

 

 
 

 『運のない奴は運のいい奴を必然的に引き寄せちまうもんなんだよ。ちょうど、俺と君みたいにね。いやあ、世の中ってのはうまくできてるよなあ』
 そんなわけのわからない法則をグラス片手に語っていた男は、今。ビュッデヒュッケ城とそれに隣接する座礁船を繋ぐ通路の真ん中で、ひとりの少女を差し出しながら満面の笑みを浮かべていた。
「じゃ、そういうことで。後はよろしく頼んだよ」
「なっ、ちょっと待っ……」
 一方的な押しつけに抗議をしようと口を開いたときには既に遅し。男は城側に続く通路の闇へと消えていた。その俊敏な動きはさすがハルモニアの特殊工作員と言うべきか。
 ――しかし、今はそんなことに感心などしている場合ではない。
「よろしくって、俺にどうしろと言うんだ……」
 ボルスは気まずい面持ちで、目線を通路からひとりの少女へと向ける。
 少女の齢は十歳前後。肌は褐色で、色素の金の髪が鮮やかに引き立っている。瞳は透き通るような青緑で、衣服は茶系をベースとした生地に複雑な模様をあしらったものを纏っている。……と、あどけない表情が愛らしい少女は、カラヤクランの民であることを示す特徴をすべて持ち合わせていた。
 少女は口をぽかんと開け、物珍しそうにボルスの顔を見上げている。
 ――無垢な瞳に返す言葉が浮かばない。相手が子供である以上は邪険な態度を取ることもできず、ボルスもまた、少女を見つめ返すことしかできなかった。
 ――ここにやって来たのは入浴のためだった。現在、大勢の人間が寝泊りしているこの城の風呂は、いつも大盛況で混雑している。しかし、夕方に差し掛かるよりも少し早いこの時間帯は、比較的空いていることが多い。ボルスはそのタイミングを狙い、訓練を早めに切り上げ、汗を流そうと風呂場のある船の甲板に続く通路を歩いていた。そこにいたのが、ナッシュとこの少女だった。
 ナッシュは少女の遊び相手をしていたようだが、子供特有のパワフルさに振り回されてフラフラになっていた。上官であるクリスに気安い態度を取るナッシュにいい感情を抱いていないボルスは、その姿にさして同情するでもなくそのまま風呂の暖簾を潜ろうと背を向けた。――そして、それに気づいたナッシュに捕まり、押しつけられて現在に至っている。
「この子の気が済むまで遊んでてあげたいんだけど、俺も何かと忙しくてねえ」というのがナッシュの言い分だが、いつも暇そうにそこらをほっつき歩いている男のどこが忙しいというのか。
「まったく……」
 少し前に交わしたナッシュとのやり取りを思い出しながら、ボルスは深い嘆息を漏らして腕を組む。へらへらとした笑みと態度が頭に浮かぶと、遅れて苛立ちに近い感情もやってきて、軽い舌打ちまでしてしまう。
「ねえ、お兄ちゃん」
「……なんだ?」
 少女に服の裾をつかまれて、ボルスははっとして視線を落とした。幼い少女は透き通った瞳でボルスを見つめている。――カラヤの少女の小さな褐色の手が、ゼクセン騎士の証である橙の騎士服を握っている。その事実に、胸がぎしりと軋んだ。
「お兄ちゃん、上にいこ!」
「上?」
「うん! 湖を見ようよ!」
 少女はボルスの服をぐいぐいと引っ張って歩いていく。笑顔には屈託も敵意もなく、あるのは純粋さだけ。それが返って胸の軋みを強くする。思考はろくに働かず、ボルスは居心地の悪い感覚をどうにか押さえつけて少女についていった。
「早く早く!」
「わ、わかった。だからあまり引っ張るな」
 少女に引きずられ、甲板へ続く階段を上りきる。晴天の日差しが注ぐ甲板には柔らかな風が吹いていて、少女は金色の髪をそよがせながら、船から見える湖に目を輝かせた。
「きれーい!」
 小さなつま先を必死に伸ばして身を乗り出す少女の背後で、ボルスは呆然と同じ光景を見つめる。陽光を浴びてきらめく水面は止め処なく、静かにゆらめいている。穏やかだが止まることのない水の揺らぎは、まるで淀む自分の内側そのものだ。
「お兄ちゃん、かたぐるま!」
「……は?」
「かたぐるま、して!」
 少女は両手を広げ、満面の笑みを浮かべてボルスを見上げる。
 その笑みに、またしても胸が軋み、ボルスは顔を顰めた。
 ――まるで、少女に自分の心臓を握られたような気分だ。敵意も戦意も持たずに笑う彼女。逆に彼女を「カラヤの子」という線を引いて直視できない自分。その差を埋めることができず、心の中にどろどろとした淀みが深まっていく。
「ねえ、お願い!」
「……わかったよ」
 とてつもない嫌気に襲われながらも、ボルスは少女の望みをかなえるべくその両脇を抱え、己の肩に乗せた。少女は、驚くほど軽かった。
「わー! よく見えるよ!」
「よかったな」
「でも、アイラのお友達にかたぐるましてもらったときより低いなあ」
「小さくて悪かったな!」
「きゃははっ! 揺れる揺れるー!」
 自分の頭を抱えるようにして眼前の湖に目を輝かせている少女の両足を軽く揺さぶってやる。きゃっきゃと弾んだ声が心地良い。少女から香る風と草原の匂いも、遠乗りで馬を駆ったときのそれによく似ていて清々しい。しかし、完全なる安息を感じることはできなかった。
「メリル! あんたなんてことを!」
 悲鳴に似た女の声に、ボルスはびくりと肩を竦めた。振り向いた先には、洗濯物を抱えた恰幅のいいカラヤ族の女性が、信じられないと言わんばかりの面持ち立ち尽くしていた。
 彼女には見覚えがある。いつも、風呂場の入り口近く――そう、正にこの位置でいつも本拠地の洗濯物を干している女性のひとりだ。他のカラヤ族と同じくゼクセン人への態度は冷たく、姿を見れば眉を吊り上げてそっぽを向いてしまう。洗濯を頼むときも気が気じゃないと部下たちもよく口にしていた。今だって、この世にあるまじき光景といわんばかりの形相で、こちらを見つめている。
 ――彼女らにとってゼクセン人は憎き「鉄頭」で、ゼクセン人にとって彼女たちは荒々しい「蛮族」。憎み合うゼクセンとグラスランド。そうなったきっかけは正直なところ、よくわからない。物心ついたときには既にグラスランドは蛮族で、剣を交えることが当たり前の存在だった。遠い遠い昔から続く憎悪の螺旋は、今日明日で簡単に途切れるものではない。ひとつの目的のために手を取り合うとを決めた現在も、大小さまざまなわだかまりがこの湖の城のそこかしこに転がっている。そう、例えば今だって――。
「ルース、見て見て! 湖とっても綺麗だよ!」
「そんなのはいいから、すぐに降りなさい!」
「えー、どうしてー?」
「どうしてもだよ! そんな鉄…」
 言いかけて、ルースと呼ばれた女は目を見開き、言葉をぐっと飲み込んだ。それから、軽く息を詰めて深く呼吸をする。その姿は、この城の中で蛮族と言いかけた自分が心を落ち着けるときの行為に嫌というほど似ていた。
「……その人だって忙しいはずさ。邪魔しちゃいけないよ」
「えぇー」
「メリル!」
「……はーい」
 ふたりの会話の流れのままに腰を屈めると、少女は軽い身のこなしでひょいと飛び降りた。その顔は大層不機嫌で、柔らかそうな頬はぷっくりと膨れて赤らんでいる。
「……お兄ちゃん、ありがと」
「ああ……」
 くるりと背中を向けた少女の寂しげな背中。その背中に、ボルスは自分が持つ一枚の思い出を見た。
 ――その昔、まだ十歳にも満たない年の頃、父が帯びていた剣に憧れて「持ってみたい」とねだったことがった。父は何度頼んでも「まだ早い」と言って触らせてくれず、それを不服に思った自分も、こんな風に拗ねたことがあった。
「……なあ。また肩車してやるから、そんな顔するな」
 ぽつりと声をかける。すると、少女は「ほんと?」とぱっと大きな目を見開いて振り向いた。その顔が、更に昔の自分の思い出と重なった。
『次の誕生日になったら触らせてやる。だからそんな顔するな』
『……ほんと?』
 いじける自分の頭を軽く撫でる父と、希望に瞳を輝かせた自分。――ああ。世界はどんな国でも変わらないもので紡がれて成り立っているのか。
 自覚して、何かが自分の中にすっと落ちる。そのときになって、ようやくボルスは微かに笑むとができた。
「ああ、本当だ」
「……ありがとう! 絶対、絶対だよ!」
 満面の笑みで大きく手を振る少女に、手を振り返す。褐色の手と白い手。ぱたぱたと駆けて去っていく少女の背をボルスは静かに見つめ、完全に見えなくなったところで、ルースに向き直る。
「……ご息女に失礼をした」
「こっちこそ、わがままな子ですまないね」
 淡々とした声色で返してきたルースは、抱えていた洗濯物をてきぱきと干しにかかった。なんとなくそのまま風呂に向かう気になれなかったボルスは、ぎこちない仕草で再び湖を見つめる。水面は変わらず止め処のなく揺れ、日の光を受けて煌めいている。
「……あんた、鉄頭の中でも優秀な戦士なんだろう?」
 不意にルースに問われ、ボルスは視線を湖から洗濯物の揺れる方へと向ける。
「……一応は」
 手探りで拾い上げた言葉に、ルースは少し間の長い瞬きをした。
「ってことは、私たちの仲間をたくさん殺したってことだね」
 否定はしなかった。弁解する理由はない。自分たちにとって、その行為は自分たちを護るための手段だったのだ。戦わなければ、死ぬだけ。それは相手とて同じことだ。奪われて、奪った。きっと、相手もわかっている。――しかし、正論を掲げて開き直るのもまた違う気がした。だから、ボルスは何も言わなかった。
「あんた、子供はいるのかい?」
「……いや、まだ」
「私は多くの子供を戦争で失くした。もちろん、あんたたちとの戦でね」
 パシッとシーツをしならせて、ルースは慣れた手つきでそれを竿にかけた。
「悪いけど、私にはあんたたちを許すことはできそうにない。理屈ではわかったとしてもね、子供を殺された親ってのは、そういうもんなんだよ。あんただっていつか親になったらわかるはずさ」
「……」
「――でもね、あの子は何も知らない。あんたたちゼクセン人が親や友達を殺したってことなんて、これっぽっちも知りやしないんだ」
「親……?」
 ボルスはそのときになって、初めてまともにルースへ視線を向けた。一方の彼女はそれに合わせることもなく、無に近い表情でシーツを見つめ、その皺を伸ばしている。
「あの子は私の子じゃないんだよ。両親ともずいぶん前に死んでしまって、私が引き取って育ててるだけさ」
「……そうか」
 重々しくうつむくボルスに対し、洗濯物を片づけたルースは空を見上げた。
「私はあんたたちを許すことはできない。……でも、あの子が大人になったとき、あんたたちのことを憎まずにすむ時代を作っていくことなら、できるかもしれない」
「……え?」
 目を見開き、再び顔を上げてルースを見る。彼女は洗濯物を干す手を止めて、ボルスを静かに見ていた。
「ここに来て、あんたたちと過ごすようになって色々と思うところもあってね。男たちはカラヤもゼクセンも関係なくバカみたいに酒を飲んで騒ぐし、子供たちはやんちゃで外を駆け回る。生まれた場所は違っても、根っこは何も変わらないんじゃないかってね」
 驚いた。自分が今感じたことを彼女も同じように感じていたとは。人種は異なろうとも、同じ世界に生きて、笑って、命を紡いでいる。ゼクセン人も、グラスランド人も変わらない。同じ人間なのだ。そんな簡単なことを、いい大人が今になって気付き、実感している。本当に今更だ。
 ――それでも、まだ、遅くはないだろうか。
「そろそろ、鉄頭だの蛮族だのなんて呼び合うのは、終わりにする頃合だと思わないかい?」
 ルースは極めて薄くだが、確かに微笑んでいた。それに応え、ボルスも静かに笑み、言葉を返す。
「……そうだな」
「蛮族」という言葉を使うようになったのは、いつからだっただろう。敵対心を剥き出しにして、憎しみを込めて叫んだことが何度あっただろう。こうして大きな流れの中で歩み寄った今、その響きはあまりに空しい。そんな言葉はもう自分で終わりにすべきだ。次の代には必要ない。
「あの子があんたに懐いた事実を、風の精霊に感謝するよ」
「……ああ。俺も女神ロアに感謝しよう」
 互いに瞑目してそれぞれの神に軽く祈る。次に目を開いたときには、もう踵を返しかけていた。
「では、俺は失礼する」
「ああ、洗濯物があるんだったら持っておいで。洗ってやるよ」
「――ありがとう」
 それから交わす言葉は、もう何もなかった。自分が立てなくてはいけなかった、彼女から聞かなくてはならなかった決意は、もう交わせたから。あとはそれを広げてゆくだけ。
 ――仲間に、民に、未来に。
 今度あの子を肩に乗せる時は笑って手を伸ばそうと、ボルスは肩にかけていたバスタオルを握りながら思った。
 ――いつか、未来にできるであろう自分の子供に、差し出すようにして。

執筆者:カザネ

 ボルスとルースがちょっとしたきっかけで会話する話です。かなり前に書いた話をリライトしました。ナッシュも少々。

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