幻想水滸伝Ⅲ 発売15周年記念Webアンソロジー企画
『受難の受容』
雨がやんでも、それを取り巻く馨りは消えない。風が吹いても、それを忘れる旋律を運ぶことは出来ない。自然の力を借りずに解決を望むなら、ただ己の想いと力で超えて行くしかないのだ。
頭で理解はしている。分かっていてもたびたび確認したくなるのは、燻り続ける後悔と胸の奥から湧き上がる微かな希望のせいだろうか?
「…何を馬鹿な」
独り言ちて、クリスは光の消えた夜の空を見上げる。
視界の端に映る上弦の月は、美しさよりも何故か鋭利な冷たさを彼女に与えた。
「………」
ふうと溜息を吐き、真下に広がる湖を見詰める。
蒼い揺らめきが憂鬱を助長し、何度でも蘇る光景が脳裏を埋め尽くした。
(…罪の意識と、それだけで片付けられればどんなに良いか)
自分よりも幼く、感情の行き場を探している少年のことを思う。
二人の出逢いは最悪だった。炎が立ち上る赤い世界に、自分は碧の殺意を見出した。
やらなければやられる。単純な法則だけが心を支配し、振るった剣はいとも容易くひとつの命を無に帰した。
そして現れた彼の親友は、射殺すような視線をこの身に向けて放ってきた…。
「被害妄想…というやつだ」
かぶりを振って愚かな考えを追い出し、クリスはゆっくり振り返った。
何かを意図しての行動ではなかったが、結果として彼女は最も大きい課題に直面することになる。
「!!」
「あ…すみません、驚かせるつもりはなかったんだけど」
「い、いや…別に構わない。そうじゃなくて、私は驚いてなどいないぞ!」
「は、はあ」
(何を言っているんだ、私は)
気を取り直して顔を上げ、クリスは相手の顔を真っ直ぐ見た。
年端も行かぬ少年は少しだけ緊張しているよう感じられる。
…無理もないことだと理解しつつ、一抹の寂しさが過るのはどうしようもなかった。
「こんな時間にどうしたんだ?」
「あ…はい。ちょっと考え事してて、気がついたらここに来ていて…」
「それなら声を掛けてくれれば良いだろう」
「……そうですね。すみません」
違う。謝らせたい訳ではない。
言葉を操るのが絶望的に下手な自分に苛立ち、クリスはひとつ咳払いをする。
「んっ、ん。その…なんだ、ヒューゴ」
「はい?」
「私とおまえは…私たち、は、その、色々あった関係だが…こうして仲間になったのだし、もう少し気を許してくれても悪くないのでは」
言ってからすぐにしまったと思い、右手を額に当てる。
果たしてヒューゴの顔に困惑が乗り、クリスは急いで言葉を訂正しようと試みる。
「いや、おまえが私を憎むのは当たり前だしそれをどうこう言うつもりはない。ただ…その、共通の目的に向かって進むのなら、このままではと…」
「クリスさん」
「はっ!?」
思い掛けず強い口調で遮られ、驚愕もあらわな声を上げてしまう。
少年の瞳は真剣そのもので、引き結ばれた唇が意志の強さを伝えてきた。
「確かにおれは、ルルのことで…友達を殺されたことであなたを恨んでいますけど。でも、あなたがこうしてみんなのために…世界の平和と未来のために先頭に立って戦う姿を、その…すごいと思ってます」
「え…?」
呆けたように聞き返すと、ヒューゴはやや気まずそうに微笑んだ。
初めて見る彼の表情に、クリスの心臓がひとつ脈打つ。
(…うわ…)
彼女が知っている少年は、常に緊張と警戒を全身に貼り付け、決して柔和な光を纏うことはなかった。
それが今こうして、穏やかな視線を自分に注いでくれている。
「クリスさんはすごいと…あの、変な言い方ですけど、クリスさんはえらいとおれは思ってます。生意気ですね…ごめんなさい」
「あ、いや、そ…そんなことは」
「でも、おれの本心なんです。信じてもらえるかどうか分からないけど」
「…ヒューゴ…」
彼の名前を呟いた瞬間、忘れ得ぬ光景が彼女の脳裏に蘇った。
――休戦ってのは…おれたちを騙すための嘘だったのかよ!!!
(ああ…そうだな)
唐突に、クリスは自分自身の感情を理解した。
見覚えの無い碧は、この手で命を奪った子供のものとは違う。それ以上の強い憎悪と軽蔑、そして恐ろしくも純粋な敵意と誓約…。
ヒューゴの怒りは彼を突き動かす原動力になっているのかも知れない。しかし何も齎さない虚ろな決意は、決して自らの命と心を切り裂くことはない。
「それでも…」
「え?」
自戒を思わず口に出してしまい、クリスは慌てて表情を作り直す。
「いや、なんでもない。その…ヒューゴ」
「はい」
「……ありがとう」
驚くほど滑らかにその言葉が口から滑り出た。
予想どおりヒューゴは軽く目を瞠り、無言のまま困惑を伝えてくる。
そして、自分の視界を占めるのは明るい碧。
あの時と何かが変わった訳ではないのに、自らの気の持ち様で全く違うものに思えるなんて…。
(本当に…おかしな話だ)
右手を顎の前で握り、彼女は意識して目尻を下げた。
クリス様はいつも眉が吊り上がっているから、不機嫌と見られてしまうのですよ。そう余計なお世話を焼いてくれた部下の顔を思い出し、ゆっくりとひとつ深呼吸する。
「私のことをそんなふうに言ってくれて…ありがとう。嬉しいと思う」
「え…いえ、おれは別に…」
「ヒューゴ」
先刻よりもはっきりと、その響きを形にする。
そして自然に手を差し出し、分かり易く彼に答えを求めた。
「さっきの言葉、もう一度言うぞ。私たちは…私とおまえは、自分たちの意志で仲間になったのだろう?」
彼女は彼に対する思いを何と呼ぶのか知っていた。
彼は彼女に対する思いを、おそらく未だ知らないままだろう。
「この世界を守りたい、その気持ちに偽りはない。私の力でどこまで出来るか分からないが、私はこの世界に価値が無いとは思わない。だから戦う。それは…その気持ちは、おまえも私と同じなのだろう?」
ヒューゴの不審が弱い抵抗に変わるのをクリスは見逃さなかった。
「おまえに許しを乞おうとは思わない…いや、そうではなく!おまえに許してもらえるとは思っていない、だが…この世界を守るため、私におまえの力と想いを貸して欲しい…」
炎の中で出逢った二人は、理解し合うことも心を重ねることは難しいだろう。
それでも、とクリスは思う。彼と自分の望みが同じ方向を目指すなら、手を取り合うことは不可能ではないと。
贖罪ではなく、全てを受け入れること。それが彼にとって屈辱でも、自分にとって偽善であっても。
「………」
沈黙を守っていたヒューゴが顔を上げ、真意を質すように見詰めてくる。
胸の奥が鈍く痛んだ。敢えてその事実は無視して、クリスはひとつ大きく頷く。
「一緒に戦ってくれ、ヒューゴ」
「……はい、もちろんですよ。おれだってこの世界に価値が無いとは思わない。この世界が大好きだから」
そうして、遠慮がちに差し出された手をクリスは強く握る。
巡る体温がぎこちない微笑を生み出し、湖から吹く風が僅かな火照りを冷ましてくれた。
「ありがとう、ヒューゴ」
「いえ、おれのほうこそ…。ありがとうございます、クリスさん」
それはきっと、二人の過去と未来が何かと訣別した瞬間。
悲運…いや受難かと心で呟き、クリスは全てを受容する決意を己の胸に刻んだ。